#「迷い」と「決断」

 

僕は、いつも何かに迷っている。

 

「起きようかな~。でも、もうちょっとだけ寝ようかな」

「今日の夜ご飯、何食べようかな。」

「今日の服、何着ようかな。」

「次のお休みは何しようかな。」

「右の道から行こうか、それとも左の道から行こうか。」

「どの会社に就職しようかな」

 

生活の中で、迷いとは必然的に起こる感情であり、現代人にとっては無意識の思考でもある。 

そして、迷うこととは、とても贅沢な事なのかも知れないと思えた。

 

迷いとは、物事の選択肢が2つ以上あり、そのどれかを選ぼうとするタイミングで起こる現象である。

もしも、自分の人生すべての事象がすでに決められていて、選択の余地が自分にないのであれば、迷いという概念は生まれないと思う。

 

しかし、現代を生きる人は、多くの迷いを経験し、それが悩みになっている。

ということは、私達現代人には、多くの迷いを経験できるだけの選択肢が用意されているということだ。

 

選択肢が多いという事は、それだけで豊かであるし、贅沢の極みである。 

 

一方で、昔の人たちは、現代よりも選択肢の数はかなり少なかった。

 

戦後の時代なんかは、今と比べ圧倒的に選択肢の数は少なかった。食べ物もほぼ毎日同じメニュー、着る服も同じ、情報を得るツールも本やラジオのみ、学校も仕事も選べる程存在していない、遊べる場所もお金もなくできる事が限られていて、選択しようにも選択肢の分母自体が少なかった。

 

もし、僕がこの時代にタイムスリップをしたならば、何を感じ、何を思うのだろうかと考察してみた。

まず、いつも決まった食事だと、何を食べようかなという食事への期待感と楽しみは無く、食事は生きるために必要な栄養補給と考えるようになると思う。

 

そして、同じ服を毎日着て身なりを意識することが無くなると、周りから自分がどう見られているかとか、どう見られたいという考えは無くなり、いい意味で周りの人の視線を気にしなくなると思うし、自分の身に付けている物で人との優劣を区別しないと思う。

 

仕事の選択肢がない事で、今みたいに嫌な事があったり、待遇がよくなかったり、仕事が楽しくないなどの理由ですぐに仕事を辞めようとはならないし、仕事がありお金を得れているだけでありがたいと思うようになると思う。

 

お金が少なく使える選択肢も限られている事で、お金を大切に扱うと思う。そして何のために、どのようにお金を使うと自分や周りにとって良いかをしっかり吟味して使うようになると思う。あと無駄な使い方はしなくなると思う。

 

この考察から気付けたことは、現代人は迷う機会がとても多くあり、その迷いの数だけ”モノ”や”コト”が、多数存在している。

そして、物質的にはとても恵まれているのだが、迷いの数が増えれば増える程、人として大切なものを失ってしまっているような気がする。

 

特に迷いが増える事で、決断力の低下につながってしまっているように思う。

なぜ、決断力の低下につながってしまうのかというと。

 

一つ目は、選択肢の数が多ければ多い程、安易に決断することが困難になり、その迷っている時間が長くなることで、決断することが面倒になり、決断する事から逃げてしまう。

 

そして二つ目は、決断までの迷いのプロセスの中で、人間の欲望が前面に出てしまい、その欲望が満たされないと不満に感じ、納得のいく決断に至らない。

 

三つ目は、他者の裁量や決断に依存してしまう。

 

例えば、車を購入する際、まずはどんな車に乗りたいかを考えますが、選択肢の基準が「自動車メーカー」、「車種」、「燃費」、「金額」、「維持費」、「性能」「排気量」などあらゆる要素があります。

 

これらの選択肢の中から一つずつを選択し、決断するのは非常に労力と時間を要する作業だと思います。そのプロセスのなかでどの車が一番自分にとって相応しいのかを選択するのが面倒になり、結果購入を辞めるという決断をする事があります。

しかし、車を好きな人からするとその迷う時間は、とても充実した楽しい時間になり、その人たちにとっては贅沢なひと時になります。

 

あと、その決断のプロセスの中で起こる現象として、少しでも自分が得をしたいという欲望の感情が生れます。

人間は欲深い生き物の為、多くある選択肢の中で、自分が一番得をするものを選ぼうとします。

車でいうと、少しでも安く購入できないかや状態や燃費の良いもの、維持費なども少しでも安く抑えられるように、購入後のアフターサービスを求めたりと決断に至るまでに自分が少しでも得になる事ばかりを考え、自分の望み通りにならないと、不満を抱いたまま購入の決断をしてしまい、その結果、何かを決断する事に対してネガティブな印象を持ってしまうようになります。

 

そして他にも、色々迷った結果、自分では決断することが出来ず、違う誰かの意見や後押しを貰わないと決めれなかったり、そもそも自分の意見や意思は最初からなく、迷うのが面倒だからといって自分の事を、他の誰かに決めてもらいたいと思う人も増えてきてます。

結果、自分では物事を決断できない、決断力が弱く自分の意思を持たない人間が増えていってしまうのが、選択肢が多くある事で起こるデメリットだと思います。

 

僕は、迷い決断できるという事は、自分の意思や意見を尊重し、自分の人生を自由に選べるという権利であると思います。

 

自分で自分の事を決めれず、他者に決断を依存しているのは、自分の人生での自由の権利を放棄しているようなものです。

 

僕は今、日常生活の中で、重要な決断に時間と意識を集中できるよう、不要な迷いの時間と労力を排除しています。

その為の方法が3つあります。

 

まずは、自分の持ち物をシンプルにする。

 

服や靴など1シーズン1度も着用しなければ、捨ててます。

あと、時計などの小物品は持ちません。スマホがあれば時間も見れるのでそれで充分。

毎日使うマグカップも同じもの、下着、靴下も5日分しかなく、それをローテーションで使用していますいます。

趣味が読書なのですが、毎日読む本とページ数は前日に決めています。

 

自分の周りに物が少ないので、物選びに費やす時間は少ないです。

 

そして二つ目は、自分の周りの人を精査する

 

価値観が合わず、一緒に居ても変に気を使って精神的に疲れてしまう人との時間ほど、無益だと感じるものはありません。

もし、そういった人と食事の約束をしてしまったのならば、どうにか断る方法や言い訳はないかや何を話せばいいのだろうなど、そんな考えても意味がない事ばかりを考えてしまいます。

この迷いの時間は、無駄でしかありませんし、それを考える労力も無駄です。

こういった無駄な迷いの時間が、自分の生産性を下げ、決断力を低下させる原因になるのです。

なので、自分に無駄な迷いや悩みをもたらす様な人とは、なるべく自分から距離を置くのが得策だと考えます。がしかし、状況的に難しいようなら、自分の在り方を変えるしかありません。距離を縮める努力はせず、相手から何か学び、得れることは無いかという事に着目する意識を持ちます。

 

三つ目が、毎日の習慣を持つ事です

日常の隙間時間に、何をするかを考える時間も削減するよう努めていますいます。

そのために自分の選択肢の幅を限定する習慣を持っています。

 

「読書」「筋トレ」「瞑想」「家の掃除」「自己分析」「婚活に関する情報収集」「Blog」「自己フィードバック」

 

これらの習慣を持っておくことで、時間が空いたタイミングと空いてる時間の長さに合わせて上記の習慣の中らか何をするか選んで実施します。

※因みに、これらの習慣は、全て自己成長につながるものです。

 

この習慣の選択肢を持ってから、テレビを自分の意思で見なくなったり、スマホからの有害情報をダラダラみる時間も無駄に感じるようになり、病院の待合時間では、瞑想をしています。(静かなので)

 

これにより、自分の日常生活の中で、無駄な迷いの時間は改善され、重要な決断のための時間と集中力が高まっています。

 

重要な決断とは、今自分が何をしたいかという贅沢な迷いから生まれる決断ではなく、自分の成長の為、自分が今、何をすべきなのかを決断する事が、僕にとって重要な決断であり、決断力を磨くことにつながると思います。

 

そして、重要な決断をするようになってから、自分のやった事での後悔の時間が圧倒的に減りました。

以前の僕は、今やりたい事ばかりを迷い、そしてやった結果その時は良くても、後々、それを見て後悔している事が多いです。

その後悔の中で、一番多いのが自分の意志ではなく人の意見で決断した事です。

 

普段の中で、決断力を磨く訓練をしていないと、人の意見に依存し、その意見に流されやすくなります。その結果、あの時もっとこうしとけばよかったと後悔するのです。

 

決断力を磨くためには、自分の周りをなるべくシンプルに整え、人間関係においてもできるだけ最適化を図り、そして自分のすべき毎日の習慣を持つ。

これが、決断力を磨き、自分の人生において最良の選択と決断をできる方法だと思ってます。

 

そして、迷いとは現代が生み出した贅沢な感情のひとつで、迷いから脱却しない限り、いつまでも、ネガティブな悩みは自分に付き纏いますし、意志の弱い人間になってしまいます。

 

「迷い」から脱却し、自分で「決断」する強さを持った時、人生を自分の責任で創ることができ、悔いのない生涯を送れると思います。